大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和45年(う)634号 判決

被告人 小松克二

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人杉本正吉、同小林勇の各控訴趣意書に記載されたとおりであるからこれを引用する。

弁護人杉本正吉の控訴趣意第一点および弁護人小林勇の控訴趣意について

各論旨は要するに、被告人は本件死亡事故と無関係であるから、原判決は事実を誤認したものである、というのである。

そこで記録を調査し、当審における事実取調の結果に徴すれば、本件被害者の死亡について被告人は無関係である疑いが強く、被告人を有罪とした原判決は事実を誤認したものと認められる。すなわち、本件公訴事実は

被告人は、自動車運転の業務に従事している者であるが、昭和四三年二月二一日午前三時四〇分ころ普通乗用自動車を運転し、横浜市中区初音町二丁目三九番地先道路を時速約四〇キロメートルで進行中、およそ運転者たる者は、運転中絶えず前方およびその左右を注視し進路の安全を確認して進行し事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、これを怠り、当時深夜で交通閑散なのに気を許し前方注視不十分のまま漫然進行した過失により、おりから前方進路上で酔余横臥していた兼尾進(当四六年)に気付かず同人に乗りあげてこれを轢過し、よつて同人を同日午前四時三〇分同区蓬莱町三丁目一一二番地藤井医院において内臓破裂等により死亡するに至らせたものである(業務上過失致死・刑法第二一一条前段)

というのであり、原判決は、右公訴事実と同旨の犯罪事実を認定した上被告人を禁錮六月に処したものであるところ、挙示の証拠によれば、原判示事実中被害者の死亡が被告人車両の轢過行為によつて惹起されたとの点を除くその余の事実を肯認することができ、右除外部分についても、(証拠略)を綜合すれば、これを肯認できるようである。

しかし、右各証拠の証拠価値を仔細に検討すると

(1)  原審証人中村才二の供述の要旨は、自分は本件当日午前三時三〇分ないし四〇分頃自転車に乗り、本件現場付近市電道路を日の出町方向に進行中、反対側車道上にふらふらしていた一人の酔払いが頭を軌道の方に、足を歩道の方に向けて仰向けに倒れるのが見えたが、その直後時速四〇ないし五〇キロメートルで対向してきた自動車が倒れた人に乗り上げるような形で急ブレーキをかけて止つたのを右前方三〇ないし四〇メートルの地点に見た。その自動車のどの車輪が、また酔払いのどの辺に乗り上げたかは見てないが、ボンというような音がしてバウンドした。自分はそのまま進行を続けたが、轢いた自動車はUターンして自分の後方からついてきて、初音町交番の前で止まつたので事故を届けたのだと思つた、というのであり、

(2)  同関口徳男(タクシー運転手)の供述の要旨は、自分は当日午前三時半頃乗用自動車を運転して本件道路を初音町から日の出町方向に進行中、反対側道路にいた女の客をみたのでUターンしてその客を乗せたが、その際自車の右側を乗用車(トヨペツトクラウン)が時速四〇ないし五〇キロメートルで追い抜いていつたので、同車と六〇メートル位の距離をおいて追随したところ、走り出して間もなく、六〇ないし七〇メートル前方で同車が激しくバウンドした後急停車した。自分はそのまま現場を通過したが、その際地上に黒い人影のようなものが、頭を歩道の方に、足を軌道の方にして倒れているのを見て、同車が人をはねたことが分り、そのナンバーは(六八六八)であることを確認した。運転者は車から降りず、その後Uターンして初音町交番の方へ行つた、というのであり、

(3)  同谷沢友行(警察官)の供述の要旨は、自分は当日午前三時四〇分頃伊勢佐木警察署初音町交番に勤務中、被告人から酔払いが車道の真中で寝ていて危いという届出があつたので、被告人運転の自動車に他の警察官一名とともに同乗し、交番から約一〇〇メートル離れた本件現場に行つてみると、黒つぽいトツクリのセーターを頭からかぶつた被害者が、頭を歩道の方に向け斜めになつた格好で車道上に仰向けに倒れており、後頭部に血痕があつた。起したが全然起きないので、通りかかつたパトカーを停め、それに乗せて病院に連れて行つた。被告人は車に乗つたまま自分達がやつているのを見ておつたと思う。届出の時被告人は恐れていた様子は見えなかつた、というのである。

(4)  これに対し被告人は、司法警察員・検察官に対する各供述調書および原審供述を通じて、自分は当時自己所有の普通乗用自動車(トヨペツトクラウン横浜五れ六八六八号)を運転し時速約四〇キロメートルで原判示道路を日の出町方面より南進し、途中道路左側で停止中のタクシーを追い抜き進行中、進路左斜前方約三〇メートルの本件現場付近車道上に黒いものが横たわつているのを発見したので、そのすぐ右側に停止した。ハンドルを持つたまま助手席のガラス越に黒いものをかぶつた人が頭を歩道方向に、長靴をはいた足を軌道方向にして道路にほぼ直角に倒れているのを発見し、酔払が寝ていると思つたので、すぐUターンして現場から約一〇〇メートル離れた初音町交番に届け、交番の警察官二人を自車に同乗させて現場に引返し、警察官が倒れている人を調べるとき車のライトを照してやつた。その人は頭と手に傷を負つており、自分は警察官が病院に連れていくため通りかかつたパトカーに乗せるのを手伝つた後帰宅した。自分はその人を轢いたことはない、と弁解しているのである。

右に記載したように、被告人は本件犯行を否認しているが、その供述中被告人が道路上に倒れている被害者を発見するとそのまま自動車をUターンさせて初音町交番に届け出たという点は、本件の目撃者とされている中村、関口両証言により、また、被告人が右届け出をなした後同交番勤務の谷沢友行ら二名の警察官を自車に同乗させて現場に引き返し、被害者の救護行為を援助したという点は、谷沢証言によつて裏付けられているのである。しかして、もしも被告人が本件の真犯人であるとすれば、いわゆる轢逃げの所為に出るか、または直ちに下車して救護の処置をとるということは考えられても、被害者を放置したまま交番に届け出るような所為に出ることは普通考えられないことであり、被告人が自己の犯行をことさら秘匿する目的で右のような振舞に及んだことをうかがわせる資料がないことを考え合わせると、被告人の前記弁解も、直ちにこれを排斥し難く、更に、当時は早暁であり、中村、関口両証人は、自転車または乗用車で現場を通過しながら見聞したというのであつて、下車して見た訳でないことに徴すれば、両証人が目撃したとされているものも、被告人車の轢過行為ではなく、その急停車の際における両車体のバウンドを見誤つたのではないかという疑問を禁ずることができないのである。なるほど被害者の死因が自動車の轢過による内臓破裂等であることは医師伊藤順通作成の鑑定書により認められないではないが、そうであるとしても、それが被告人車両の轢過に因るものか、それとも被告人が届出のためUターンした後、警察官とともに現場に引き返してきた数分間に同所を通過した他の車両に轢過されたことに因るものか判明しない。

以上のように、原判決挙示の証拠によつて被告人車両が路上に倒れていた被害者を轢過したと断定することはできず、他にこれを確認できる証拠がない以上(当審における事実取調の結果に徴しても右結論を左右するに足りない。)、右事実を前提として被告人の過失責任を肯定した原判決は、証拠の価値判断を誤り、ひいては事実を誤認したものといわなければならない。論旨は理由がある。

よつて他の控訴趣意に対する判断を省略し、刑事訴訟法第三九七条第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により本件について更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は前記のとおりであるが、犯罪の証明が十分ではないから、同法第三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡をなすこととして主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例